学園記念日のミサに先立ち、全国の白百合学園にある小百合会の始まりとその創立者マスール荻島礼子先生について、ご紹介いたします。
 小百合会は、今から丁度74年前の学園記念日、第2次世界大戦最中の昭和16年6月29日、仙台白百合で創立されました。当時は、宗教の授業が禁じられていましたので、希望する生徒たちが、放課後、マスール荻島から聖書を学び、共にお祈りしていました。最初、数名で始まったこの集いが、40名になり、そして、戦地の兵隊さんのために手作りの品などを送る奉仕活動を始めるにあたり、「小百合会」という正式な会となったのです。生きるか死ぬかの兵隊さん達は、白百合生の祈りの言葉が添えられたマリア様のご絵のカードを胸にピンでとめて行軍したといわれています。
 やがて、南方で日本軍が玉砕するようになった昭和18年7月、マスール荻島は、日本語教師として、政府から香港へ派遣されることになりました。当時、日本政府は、植民地での民間交流を活発にしようと、宗教者を派遣していました。香港のためにカトリックから選ばれたのが、横浜教区長の井手口神父様とシャルトル聖パウロ会のマスール西田とマスール荻島でした。
 マスール荻島が仙台を出発する前日、仙台白百合では、全校生徒が集められ、マスールの出発が告げられました。このとき、マスールと親しくなかった生徒まで、全校生徒が泣いてお別れしたといわれています。マスールが香港に行くのは、犠牲のためだと皆わかったからです。当時、カトリックは敵国の宗教と思われていました。この中、白百合学園が、また全国のカトリック学校が、そしてカトリック教会が、国に忠実であることを示すために、マスールたちは香港へ出発したといえます。しかし、誰も決して、マスール荻島が犠牲であるなどとは、口にはしませんでした。もしもそのようなことを言うなら、非国民と非難されてしまう、そのような時代だったのです。
 マスールたちを乗せた船は、当時としては珍しく順調に航海しましたが、香港の港の入り口で、機雷に触れてしまいました。マスールたちは、優先的に救命ボードに案内されましたが、叫び声をあげて殺到する他の乗客に自分たちの席をゆずり、3人は、お互いを縄で結び、祈りながら海に沈んでいかれたといわれています。このとき、マスール荻島は27歳でした。 マスールの死が仙台の白百合生に告げられたとき、日本出発直前に書かれたマスールからの最後の手紙も届いていました。その中には、次のようにありました。
 「この戦局のとき、無事に着くとは考えられません。覚悟はできています。変わりなく祈っていますから、私がやり残したことをなさってくださいね」
マスール荻島が仙台で創立した小百合会は、戦後、全国の白百合学園に広がり、現在に至っています。
 さて、これから始まるミサは、ご自分の死を目前にしたイエス様から、私たち一人ひとりに託された遺言です。このミサの中で、私たちに託された望み、夢が何であるのか、神様に聞いてみましょう。私たちは弱いものですが、イエス様が私たちを導き、そして私たちの中にいらっしゃる聖霊が、私たちを励まし、力づけてくださいます。感謝と祈りのうちにミサを始めましょう。
 
 

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